北島選手が話題の水着、speedoで世界新記録を樹立した。それも従来の記録を1秒近く更新という凄まじさ。水着の所為だけではないだろうが、調整の時期にこの記録、やはり従来と同じ水着では出なかった記録だろう。それを受けた水連も、この水着の着用を許可、妥当な判断だと思う。
写真展を見た知り合いの女の子から「やっぱいいカメラは違うね」と言われた。
確かに、いいカメラを使ってはいる。だが、カメラがセンスを補ってくれるわけではないし、勝手にシャッターを切ってくれるわけではない。コンパクトカメラでもセンスのある人が使えば、ものすごい写真が撮れるだろう。
写真はNikonの最高級機、D3。某教授の私物である。僕がこのカメラやCanonの1Ds系を使えば、よりいい写真が撮れるのだろうか?その自信はない。もちろん、使ってみたいのだが・・・。
カメラは道具に過ぎないと僕は思う。1Ds系にステップアップするのはかなり腕を磨いてからにしよう。
3 件のコメント:
この間Lレンズ見てニヤニヤしていたじゃないのよー
写真表現。
それは、瞬間を切り取られた二次元の構図の中から、人の悲しみや寂しさ、または豊かさや躍動感など、三次元の情景を浮かび上がらせる表現そのものを指す。
その一枚に如何にして立体的な思いを凝縮させ、見る人にそれを伝えることができるか。それはまさに表現者である撮影者の自らの生き様の上に立つ、人生観から死生観までもが写し込まれてこそ、はじめて醸成されるものである。
写真機の固体差による表現力の格差は、決して言われているほど大きなものではなく微視的なものに過ぎない。そしてすべての光学機器が、光に関する物理の法則により様々な息苦しい規制の上で成り立っている。しかし人間である撮影者の持つ価値観はどうか。経験はどうか。またはそれに基づく知見はどうか。これは、機器の性能や個体差を大きく乗り越え、そのまま強烈な表現力となってその一枚の写真に投影され、見る者に強いインパクトを与える。
すべての表現者よ。自己の表現力を向上させたいと思うのなら、自らの作品に深い奥行きを写し込みたいと思うのなら、もっと暗闇を経験せよ。もっと下層に想いを馳せよ。日常の苦しさの中から生まれた葛藤や苦悩を踏み台してこそその先に、優れた表現作品の礎が待っているものである。
誰もが美しいと思うような情景ばかりにレンズを向ける者は、決して雨空の持つ緻密な陰影に気がつくことはない。
法學徒さん、深すぎっすw
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